MENU


暮らし

料理

ご飯メモ

DIY

旅行

国内

海外

ワーホリ

骨折日記

急性期

回復期

慢性期

セカンドピニオン

死ななかった日・その1

2019年12月に脛骨・腓骨の開放骨折、大腿骨頸部骨折した人の日記です。
はじめて読む方は「骨折日記はじめに」からどうぞ。

※この日の文章は、2019年12月5日にiPhoneのマイク機能でメモしたのを後で修正したものです(指はしびれでキーを打てなかった。)

目次

すべての原因は一瞬の不注意

2019年12月3日朝5時頃、環七通り南交差点付近(目黒区)原付バイクで単独事故。自宅まであと3〜5分の場所だった。台湾旅行を終え、羽田空港からの帰路。疲労から意識が落ち、ガードパイプに突っ込んだのだ。

人様や車にぶつからなくて、自分だけの怪我で済んだ事は、本当に不幸中の幸いで誰かを怪我させていたら、自分の治療どころではない…。疲れ切って運転をした自分を悔やんでも悔やみきれない。

50cc以下の原付バイクに乗ってました

損傷箇所は全部で3箇所

・スネと呼ばれる2本の骨、左脛骨(けいこつ)・左腓骨(ひこつ)を複雑骨折(開放骨折)
・左大腿骨頸部(股関節)を単純骨折
・頚椎(首の骨)の軽度損傷、指先に非常に強い痺れ

目が覚めたら、私はうつ伏せで道路に横たわっていた。起き上がろうと試すが、手が激痛。そして、左足が信じられないくらい痛い。「誰か助けて」という気力もでない。

救急車で運ばれる

体感時間10分ほどで、白っぽい服を着たおじさんが大きな声で「大丈夫か!生きてるか!救急車呼んだからな!」と言ってくれた。命の恩人である。
(のちに連絡先を警察官に電話で聞いてみるが個人情報の観点から教えてもらえなかった)

救急車はなかなか来ず「人が死ぬ時ってこんな感じなんだな。」と思いながら、再び眠った。
場所が人里離れた場所なら、発見されずにこのまま死んでるのだろう。

けたましい声に目を覚ます。救急車とパトカーが到着していた。
警察官に名前や住所、携帯はどこにあるのか。財布は免許証は?を大声で質問されまくり、残ったエネルギーでなんとか答える。私は苗字も名前もとても珍しいのだけど、一生の中でも一番説明が面倒くさい瞬間だった。

激痛と絶望

おそらく変な方向に曲がっている足をストレッチャーに収めるため真っ直ぐにされる時、大声で「痛い!!!」と叫んだのを覚えている。この瞬間、こんなに痛いなら、さっき死んだほうがマシだったわ。と思うくらい痛かった。

ほんとこんな感じ。ボロボロだった。

救急車はすぐには発車しない。搬送先の救急病院が見つからないのだ。救急車の方がいろんな病院へ連絡してくれているのが聞こえる。救急車は発車したが、とても長い道のりに感じた。(実際、目黒区から新宿区と、事故現場からはけっこう遠い病院に搬送されている。)

私への質問はまだまだ続く。「ご家族に電話してください。」とスマホを渡された時はびっくりした。「手が痛くて無理です。」と伝えて、実家の電話番号を伝えて代わりにかけてもらった。

「両親はさぞかしびっくりしているだろうなぁ。申し訳ないな。」少しの揺れでも足は激痛がしたが、それに増して、手は何かに触れられるだけで、ものすごく痛かった。

救急車の中で「この身体でどうやって生活していくんだ。」「愛猫のミー君とトムも、家で私を待ってるのに。」「この手は一生使えない手になるのか。」「治療費はどうするんだろう。」

全身激痛の中、頭は絶望的で考えることでいっぱいだった。

コメント

コメントする

目次